
フランスの歴史/ローマの支配と王政
現在のフランスに相当する地域は、紀元前1世紀まではマッシリアなどの地中海沿岸のギリシャ人の植民都市を除くと、 ケルト人が住む土地であり、古代ローマ人はこの地をガリアと呼んでいました。ゴールに住むケルト人はドルイドを軸に自然を 信仰する独自の文化体系を持っていましたが、政治的な統一は存在しませんでした。紀元前219年に始まった第二次ポエニ戦争では、 カルタゴ帝国の将軍ハンニバルが南フランスを抜けてローマ共和国の本拠地だったイタリア半島へ侵攻しましたが、 ゴールには大きな影響を及ぼしませんでした。その後、カルタゴを滅ぼしたローマは西地中海最大の勢力となり、 各地がローマの支配下に置かれました。ゴールも例外ではなく、紀元前121年には南方のガリア・ナルボネンシスが属州とされました。 紀元前1世紀に入ると、ローマの将軍カエサルは紀元前58年にゴール北部に侵攻しし、ゴールの諸部族をまとめたヴェルサンジェトリクスは 果敢に抵抗しましたが、ローマ軍はガリア軍を破ってゴールを占領し、ローマの属州としました。ゴールは幾つかの属州に分割され、 ローマの平和の下でケルト人のラテン化が進み、ガロ・ローマ文化が成立しました。 360年にゴール北部の都市ルテティアはパリと改名されました。5世紀になるとゲルマン系諸集団が東方から侵入し、 ガリアを占領して諸王国を建国しました。476年に西ローマ帝国が滅びるとゲルマン人の一部族であるフランク族のクローヴィスが 建国したメロヴィング朝フランク王国が勢力を伸ばし始め、508年にメロヴィング朝はパリに遷都し、メロヴィング朝の下でフランク族は キリスト教とラテン文化を受け入れました。メロヴィング朝の後はピピン3世がカロリング朝を打ち立て、カール・マルテルは 732年にイベリア半島から進出してきたイスラーム勢力のウマイヤ朝をトゥール・ポワティエ間の戦いで破り、 イスラーム勢力の西ヨーロッパ方面への拡大を頓挫させました。800年にシャルルマーニュは西ローマ帝国皇帝の称号をローマ教皇から 与えられました。シャルルマーニュの没後、フランク王国は三つに分裂し、ほぼ現在のフランス、イタリア、ドイツの基礎となりました。 987年に西フランク王国が断絶するとパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選出され、カペー朝の下でフランス王国が成立しました。 王朝は17世紀のルイ14世の時期に最盛期を迎えています。
フランスの歴史/フランス革命
1789年-1794年、ブルボン王朝及び貴族・聖職者による圧制に反発した民衆が1789年7月14日にバスティーユ牢獄を襲撃しました。 これを契機としてフランスの全土に騒乱が発生し、アンシャン・レジームは崩壊します。これらの動きを受け、国民議会は封建的特権の 廃止を宣言し、8月26日にフランス人権宣言を採択しました。しかし革命の波及を恐れるヨーロッパ各国の君主たちは革命に干渉し、 これに反発した革命政府との間でフランス革命戦争が勃発します。
バスティーユ襲撃
国王政府の軍隊集結によって緊張が高まるなか、7月11日に国民に人気のあったネッケルが罷免されました。これに怒った民衆は、 1789年7月14日に当時は火薬庫であったバスティーユ牢獄を襲撃しました。パリでの事件が伝えられると争乱はフランス全国に飛び火し、 暴動を起こした農民達が貴族や領主の館を襲って借金の証文を焼き捨てるという事件が各地で発生しました。
ヴァレンヌ事件
革命勃発により、貴族や聖職者など特権階級の多くが国外へ亡命を始めていました。1791年、国王と民衆との仲介者であった ミラボーが死ぬと、過激化する革命を嫌ったルイ16世は、マリー・アントワネットの愛人であるスウェーデン貴族フェルセンの助けを借り、 王妃の実家であるオーストリアへ逃亡しようと企てました。6月20日、ルイ16世一家はパリを脱出しますが、国境の手前のヴァレンヌで 国民に見つかり、6月25日にパリへ連れ戻されてしまいます。この事件はフランス国民に衝撃を与え、同時にルイ16世の反革命思考が 暴露されました。革命の波及を恐れるオーストリアとプロイセンとがピルニッツ宣言を発表し、ルイ16世の地位を保証しないと 戦争をしかけると脅したので、ルイ16世は国王に留まることとなりました。
フランスの歴史/共和政時代
1789年にフランス革命が起きて王政は倒され、1793年にルイ16世とマリー・アントワネットが処刑され、 同時に数千人ものフランス市民が恐怖政治の犠牲となっています。1799年にナポレオン・ボナパルトが共和国の権力を握り、 第1統領となり、やがて皇帝に即位して第一帝政を開きました。
ナポレオン戦争
ナポレオン戦争は、1803年にアミアンの和約が破れてから1815年にナポレオン・ボナパルトが完全に没落するまでに行われた戦争のこと。 ナポレオン率いるフランスとその同盟国が、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンなどのヨーロッパ列強の対仏大同盟と戦いました。 戦争はフランス革命戦争後の混乱期に始まりました。フランス軍を率いたナポレオンは一時期ヨーロッパの大半を征服しましたが、 スペイン独立戦争とロシア遠征で敗退し、ワーテルローの戦いにおいて決定的敗北を喫しました。1815年11月20日の第二次パリ条約の 締結をもって戦争は終結し、ナポレオンは失脚しました。全てのヨーロッパの国家が多かれ少なかれナポレオン戦争に関与しました。 ナポレオン戦争では何度も宣戦布告と講和が繰り返されたため、フランスとイギリスが一貫して対立関係にあったことを除き、 参戦国は途中で入れ替わりがり、フランス側の同盟国から対仏大同盟側へ、あるいはその逆へ立場を変えた国もあるようです。
1815年にナポレオンがワーテルローの戦いに敗れた後、フランスは王政復古しましたが、王の権力は憲法に制約されていました。 1830年、7月革命によって立憲君主制による7月王政が立てらましたが、この王政は1848年に終わり、第二共和政に移行しますが、 1852年にルイ・ナポレオンが第二帝政を開きます。ナポレオン3世はボナパルティズム的手法で国内を固め、インドシナ半島や メキシコなどに積極的に出兵しましたが、1870年の普仏戦争に敗れたナポレオン3世は退位し、第三共和政に代わりました。
第一次世界大戦
1914年、第一次世界大戦が勃発するとフランスは連合国としてドイツと交戦しました。マルヌ会戦においてドイツ軍の シュリーフェン・プランを粉砕したフランス軍は、その後長い塹壕戦に突入したそうです。大戦中、戦場となったフランスの国土は 荒廃してしまいました。1916年のヴェルダンの戦いでは、同盟軍の攻勢を防ぐことに成功しましたが、フランス軍の死傷者も甚大な 数に上ってしまったそうです。
フランス第四共和政が成立し、経済は再建されたものの列強国としての地位は崩れかけていました。フランス領インドシナの支配を 回復しようとして、抵抗するベトミンとの間で第一次インドシナ戦争が勃発し、1954年にディエンビエンフーの戦いでベトミンに 大敗を喫してインドシナから撤退しています。1973年の石油危機以降、フランスは深刻な経済危機と低成長を経験しており、 政権の交代が繰り返されました1950年代からのドイツとの和解と協力によって、両国はヨーロッパ経済共同体や1999年1月のユーロ導入を 含む欧州統合に中心的役割を果たして来ました。フランスはヨーロッパ連合の主導国の一つでとなりました。
第五共和政は1959年から現在に至る政治体制です。アルジェリア戦争に際して無力さを露呈した第四共和政は、 シャルル・ド・ゴールの再登場によって第五共和政へと移行しました。第五共和制では大統領に強い行政権限があり、 アルジェリアの独立、さらに中華人民共和国の成立を承認し、冷戦下では西側陣営でありつつも独自路線を貫きました。 1960年には核兵器の開発に成功し、五月危機の翌年にフランソワ・ミッテランが当選、フランス共産党との左派連合政権となりました。